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2022年11月11日

+RIVERPOOL 埼玉 ちちぶ

冷たい風が吹きだし、まるで寒さを誤魔化してくれるかのように木々の葉が暖かい色に染まり出した頃、「+RIVERPOOL 埼玉 ちちぶ」は様々な人たちの温かい想いによって完成致しました。
+RIVERPOOLのライトアップされたサイト
施設の完成に向け、関わってくださった全ての皆様、改めて本当にありがとうございます。

当施設の北側には清らかかつ穏やかな三沢川が燦然と流れ、昔ながらの石垣と立派な竹たちの間をかき分けるように秩父の清涼な風が訪れ、施設を彩ってくれています。

この壮大な自然の美しさが人の心を動かし、この地を他の人とも共有したいという想いが湧き上がり、私たちが「手入れ」をし、新たな生命をこの地に吹き込もうとグランピング施設の構想が出来上がりました。

自然な対象に「手を入れる」ことにより、日本人は自然と共存して来たという歴史があります。
日本の国土の約7割が森林で、そのうちの8割は人間が「手入れ」をすることによって出来上がったある意味人工的な森林なのだそうです。

この「+RIVERPOOL 埼玉 ちちぶ」が出来上がった土地は、元々農地として登録されている土地でした。

日本の農業はただ作物を育てるのではなく、「土」から育てるそうです。

作物が美味しく育つかどうかは気候による要因を除けば、なかなかパッと見ただけではわかりにくい「土(微生物や細菌など)」の性質・成分によって決まってしまう部分が大半を占めるということです。

当施設にとっての「土」とは、そこで働く人たちのことを指すでしょう。

それではその「人」にとっての「土」、つまり「土台」とはなんなのでしょうか。

今のところそれは「想い(心)≒情緒」のような気がしています。

数学者の岡潔は「人間の中心は情緒」だとおっしゃっていました。
日本文化においての美意識、価値観に影響を与えた思想である本居宣長の「もののあはれ」もこの「情緒」を指す言葉だと小林秀雄は指摘しています。

人間は「わかってはいるけれど、出来ない」ことに囲まれて生活をしています。
例えば、健康が大事だと「知性」で分かっていて、そのために食事制限と運動をしようという「意志」が働いても、食べることが大好きでやめられないという「感情」や、面倒くさいという「感情」を克服しない限り、「わかっているけれど“感情”が納得出来ていない」ので行動に移せません。

つまり「知情意」の「知性」と「意志」が納得しても、「感情」が納得しないと人間は本当の意味で納得し、行動に移せません。

逆を言えば、「知性」と「意志」が納得していなくても、「感情」が納得すれば人間は動くことが出来るということでしょう。
だから人間は時に理性的とは思えない行動を行ってしまうのです。

そのことを先人達は見極め「もののあわれ」や「人間の中心は情緒」だと表現したように思えます。

ひとまず人間の土台(行動原理)は「情緒」だと仮定して、ではどのようにすれば人間の情緒を育むことが出来るのでしょうか。

情緒は感情の一種であると推測できるので、極端な例として感情のピークである「感動」について考えてみます。

喜怒哀楽の感情が複雑に絡まり合い、その感情と同調し、それがピークに達することを体験すると人は「感動」します。
感動した人間は自分の知性や意志とは関係なく、生理現象である涙を流したり、身体を震わせたりします。

ここで「感動」の肝となるのは「同調(シンクロ)」ではないかと思われます。
つまり感動とは1人では出来なく、自分以外のものとの関係から生じるものだということです。

そうなると感動には2種類のものがあることがわかって来ます。

それは、他者の動的行動を読み取る感動、つまり「他者の情熱によって与えられる感動」と、静かな他者に自ら歩み寄ることにより得られる感動、つまり「自らの想像力によって生み出される感動」です。

でもこれは一見、区別が付きにくいように思えます。
なので「都市」と「自然」を比較して考えてみましょう。

人間が意図したものだけで作り上げようとする町を「都市」と言います。
よって都市では意図的ではないものは「邪魔なもの」と判断され、それをどうにか意図したものに変えようとされます。
意図して作り出されたものには必ず誰かの「情熱」が組み込まれています。
ビルとビルの間に雑木林があれば、そこに住む昆虫や動物、土壌については無視され、それをどうにか人間にとって意図あるものに変えようとされてしまうのです。
つまり都市の中のほとんどのものには作成者の意図(情熱)が組み込まれているので、都市の中で得られる感動のほとんどは前者の「他者の情熱によって与えられる感動」だということです。

それに比べて自然の中には人間の意図(情熱)はありません。
どこを探しても見当たりません。
その中で感動するためには、自ら自然に歩み寄り、自然と同調し、想像力を働かせるしかありません。

一本の木がここまで育つのに費やした歳月について思いを馳せてみたり、一枚の落ち葉から一生を感じ取ったり、一輪の花から永遠に近い一瞬について学んだりすることによって得られる感動は、自然の中でこそ得られる作成者(人間)の意図(情熱)を一切排除した感動です。

感情を持たないように見える自然に想いを馳せることにより、感情が高まり、自然と同調して感動できるというのはよくよく考えると不思議なことです。

きっと人間の心の中にも自然が存在しているから、自然の美しさと同調し、感動することが出来るのだと思います。

都市と長い会話を続けていると、完璧でなきゃいけないと感じてきます。
でも完璧でなくてもいい。ただ真実(ありのまま)であればいい。
と短い会話の中で自然は思い出させてくれます。

でもその真実というのはきっと普遍的なものではなく、それぞれの感じ方の数だけ真実は存在します。
つまり真実というものは、その人の解釈の一つに過ぎないということです。
でも都市としては一つの真実を作り出さないと、異なるバックグラウンドの人々をまとめることは難しいから、一つの真実を創り上げる必要があるのでしょう。

都市にも自然にもそれぞれにそれぞれの良さがあります。
「+RIVERPOOL 埼玉 ちちぶ」には都市としての部分と、自然としての部分、火と水など、正反対の性質のものが融和して存在しています。
その中で逍遥自在に過ごすことにより、情緒を養っていただけたら嬉しく思います。

今後ともよろしくお願い致します。